藤野芸術の家 [建築]
ブルボンについて.10 [建築]
ご注意:この記事は書きかけです。取りあえず途中ですがアップさせて頂きました。
映画 「仮面の男 」見ました。面白かった!
秘密、策略、アクション、そしてどんでん返し、またどんでん返し!
時代背景など判るときっともっと面白いのではないでしょうか!!
あ、いえ、ロケで使われたという噂の建物が見たかったんですよ。ほんと。ほんと。
ウェブ・マスター Romiさんの記事より
ヴォー・ル・ヴィコント
http://members3.jcom.home.ne.jp/richelieu/vaux.html
建物とは、建築主の影響を強く受ける存在である と 強く感じました。
さてさて、ヴェルサイユ宮殿建築歴史のおさらいです。
1623 ルイ13世(1601-1643)は、家臣の進言により狩りの時に遅くなっても宿泊できる自分の館を作るため「ろうそく入札」をする。
設計者ジョアン・ド・フルシの設計で、ろうそくが燃え尽きるまでに一番安い金額を提示したニコラ・ユオ:工事請負業者を選定。
1623 着工 屋根:スレート葺き 外壁:漆喰仕上げ 構造:粗石造り
何とも安い材料をつかったものだと 思います。
1623 完了(早いよ!!!)
数ヶ月で入居できるように作ってしまいました。 日本の建て売り業者もびっくりです。
1624 ルイ13世宿泊 近隣の土地を買収に着手
1629 ポーム場(屋内スポーツ施設)増築
1631 ルイ13世 切石と煉瓦で建て直しを思いつく
建築家 フィリベール・ル・ロワを任命する。(工期4年の改築工事)
1634 完成 (早いよ!!!)
建物を使用しながらの作り替えです。
1643 ルイ13世お亡くなり
ルイ13世は、気さくで、気まぐれ、せっかちで、けちなところもある人だったようです。42年。人生もせっかちに走るように生きたように思います。
1651 ルイ14世(1638-1715)ヴェルサイユ訪問
1660 ルイ14世ヴェルサイユを家族水入らずで過ごせる別荘にしようと 思いつく まもなく調理室など増改修工事着手
1661 ニコラ・フーケ(1615-1680)所有ヴォー=ル=ヴィコント城完成 同8月パーティー開催ルイ14世その他大勢招かれる。
1663 建物完成
1665 廷臣達を招き ヴェルサイユお披露目のため祭典を開くが「野暮な別荘」とか言われてまたもや改修工事を決意
改修工事には、シャルル・ペローを参画させる(この人は有名です。検索してね)
1666 ルイ14世はモンテスパン侯爵夫人と出会い、寵姫にする
丁度この年、ロンドンは大火災に見舞われます。9月1日のことだそうです。
1668 ルイ14世ヴェルサイユ拡張計画 旧館を取り囲んで新館を造営するのはどうかと以下の人に持ちかける
王室建築家 ルイ・ル・ヴォー(1612-1670)と建築長官 コルベール(1619-1683)からブーイングうける。が。押し通す
ル・ヴォー は、自分の美的感覚から外れてるその建物の所有者に対してその後、あの手この手を使って旧館の取り壊しを具申したにもかかわらず、ルイ14世は頑固として聞き入れなかったようです。
1669 ルイ14世サンジェルマン・アン・レー城より本格的に引っ越し
(サンジェルマン・アン・レー城の拡張工事をしたのがジュール・アルドゥアン・マンサール(1646-1708)。その後モンテスパン侯爵夫人の城を設計する)
1670 ヴェルサイユ宮殿と別荘:磁器のトリアノン(大トリアノンの前進)完成 ル・ヴォーお亡くなり
ル・ヴォー58歳。 若いですよね。どのようにして亡くなられたのか、ネットでは記述が見あたりません。なんか、あやしい。
1675 ジュール・アルドゥアン・マンサールがヴェルサイユ宮殿の造営に携わる
庭園に面したファサード、大臣の翼、南北の翼、鏡の間、王室礼拝堂、大小の厩舎、新オレンジ温室(マンサード屋根ってマンサールが考案したんだって。ほんとかね?)
1681 ジュール・アルドゥアン・マンサール王の主席建築家になる
1684 大ギャラリー(鏡の間)増築完成
ここで、ルイ14世は宮殿に関しては、満足したらしいです。 その後、簡素な中庭側の御座所で過ごすようになります。46歳。
1687 大トリアノン改築工事(磁器のトリアノンは、タイルが剥がれてうまくなかった)
1699 ジュール・アルドゥアン・マンサール王家の建物総監に任命される
マンサール 出世街道まっしぐらです。
1708 マンサールお亡くなり
62歳 後期バロック建築の第一人者の一人 と、後世に伝えられています。
1715 ルイ14世お亡くなり
77歳。この当時にしてみれば、長生きした方ではないかと思います。
ルイ15世(1710-1774)
アンジュ・ジャック・ガブリエル(1698-1782)
ルイ16世(1754-1793)
フランス革命
ナポレオン1世(1769-1821)
ルイ18世(1755-1824)
ブルボンについて.9 [建築]
今回は 新古典主義建築の事です。
1705年だったか1706年だったか。
イタリアで下水道工事のために地下を掘っていた職人がローマ時代のものと思われる円盤形の石のプレートを掘り当てます。
その後、調査が進み、その石のプレートはポンペイという伝説の町を暗示していました。もしかしたらポンペイは実在する場所なのでは?と疑問がわき、調査が開始されました。「この辺じゃないか」と当たりを付けた場所から、まずヘルクラネウムと言う町が、そしてポンペイも見付けちゃった!それが1738年(ヘルクラネウム)と1748年(ポンペイ)。二つの古代都市は、西暦79年8月のベズビオ火山の噴火がもとで埋没してしまったローマ都市です。
NHK世界遺産の旅「ポンペイ遺跡」
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards085.html
それまでは、銅版画でしかローマ時代の様子を知ることがなかったのだそうで、その為にヨーロッパ諸国は「これはとても重要な発見だ!」ということで現在も調査は続いているわけです。
フランスでは、立派な宮殿を造ってる最中だったわけで、
バロック様式を学ぶためにイタリアローマなんて
しょっちゅう出張していた建築家はいたのだろうと思いますので、
そう言った情報は早速!建築様式に取り入れられる
ということになってもおかしくは無いのでは、
と私は愚考する次第であります。
「お聞きになりまして?」
「ええ、もちろんですわ。ローマの都市がそっくり出現したとか」
「人の石膏が、沢山見つかっているのですって。神殿や貴族の建物も当時のままだそうですことよ。すばらしい芸術作品がたくさんあるのですって。」
「まああ!!これこそ ロマンですわ!」
「ええ!!ロマンチックですわ!」
・・・・と、ヴェルサイユ宮殿のサロン内で話し合われたかどうかは定かでは有りませんが、
いろいろな部分にローマの建築を取り入れようとの試みはルーヴル、ヴェルサイユ宮殿敷地内にところどころ見ることが出来るとか。
要するに、当時の貴族達はバロックもロココも飽きて来ちゃった訳ですね・・・
フランス政府観光局サイトへようこそ
http://jp.franceguide.com/edito.html?nodeid=1118&editoid=12334
上記で紹介したサイトの記事の中に、カルーゼル凱旋門と有りますが
残念ながら行きそびれました。
これはエトワール凱旋門
これも新古典主義建築に数え上げられていますが、一体どの辺が新古典主義なのか
いまいち判りません・・・
マドレーヌ教会 「十字架の無い教会」というニックネームが付いています。
外観の何処にも十字架がありません。
太古のローマ神殿は、キリスト教が布教されたとき、
たいてい教会に使い回されていたのだそうです。
でも、このマドレーヌ教会は、最初からローマ神殿をかたどったキリスト教会です。
なんだかちょっと不思議な感じがしますです。
コリント式かしら?頭柱部分は結構こてこてです。
次回は来週で、最終回とします。
ではまた~
ブルボンについて.7 [建築]
ブルボン王朝時代を扱った映画やらアニメ作品の話です。
いろいろ検索しているとこういう情報も拾えて興味深いと思い
ピックアップしておくべき!と思いましたので・・・
映画で行くと
「花咲ける騎士道」クリスチャン・ジャック監督フランス映画?
ポンパドゥール夫人が出てくるとか。まだ見てないんです。。
ジェラール・クラヴジック監督のリメイク版もでています。。。フランス映画
「仮面の男」デカプリオ主演 ランダル・ウォレス監督アメリカ映画
ヴォー=ル=ヴィコント城がロケ地だったとか。
「マリー・アントワネット」ソフィア・コッポラ監督アメリカ映画
ヴェルサイユ宮殿がロケ地です。
ずっと以前に記事で取り上げました
「マリー・アントワネットの首飾り」チャールズ・シャイア監督アメリカ映画
舞踏会のシーンで、バロック初期だろうかの服装とロココの流行が
画像としてとても効果的に表現されていたことが今でも記憶に有ります。
以前のマイ記事↓
http://koyaura-syuunou.blog.so-net.ne.jp/2005-01-26
「三銃士」作品としては沢山出ています。
リチャード・レスター監督作品は3部作で「四銃士」「新・三銃士」と、有るらしい。
ルイ14世時代ですかね。
アニメでいくと
「シュヴァリエ」プロダクションIG制作古橋一浩監督
ルイ15世かっこいいです。
いやいや、何よりも、建物などが凄いです。
CGで鏡の間を通り抜けるオープニングは、いつ見ても凄いと思う。
ヴェルサイユ宮殿内はもとより、パリの旧市街、ノートルダム大聖堂内部
ドイツケルン大聖堂の足場とか(笑)
ロシア、イングランドといった各都市の宮殿なども出てきます。
様式比較が出来て非常に興味深いです。
個人的にルイ15世愛用の特製机がしょっちゅう出てくるのが嬉しかったりします。
「ヴェルサイユ宮殿の発見 」より引用します。
http://www.chateauversailles.fr/index.cfm?langue=jp
ルイ15世の巻き上げ式蓋付き書斎机
書類を人の目に触れないように置ける机が欲しいと、ルイ15世が注文し、このようなシリンダー式の巻き上げ蓋付き机が誕生しました。完成まで長い年月を費やし、ドイツ人の高級家具職人ジャン=フランソワ・オエベンが1760年に作りはじめ、1769年やっとその弟子のジャン=アンリ・ リーズネが完成。 彼はやがて王妃マリー=アントワネットのお気に入りの家具職人になります。
支払い額 62800, ルイ15世が注文した家具の中で最も高価なものです。 それもそのはず、金鍍金したブロンズの豪奢な縁取り、高価な木を用いた寄木細工の絵の装飾仕上げなどが表面に施され、内には秘密の引き出しの開け閉めのために驚異的な機械じかけが隠されています。 王のみが鍵を保管し、4分の1回転で巻き上げ式蓋と中の引き出し全部の鍵を開けることができます。
世界の帆船模型展より撮影させていただいたものの中から。
正垣昌宏氏制作スクラッチビルド(図面や絵画などの資料から自作したもの。凄い!!)
ソレイユ・ロワイヤル
本艦は1669年ルイ14世の命令で建造された第一級艦である。バルフルールの海戦、ハーグの海戦にフランス艦隊の旗艦として出動した。ハーグの海戦では対抗する英蘭連合艦隊に対して圧倒的劣勢の中での出動であったが、勇戦奮闘してシェルブール海岸に座礁し爆発炎上した。
君も『ヴォー・ル・ヴィコント友の会』に入会しませんか!!
http://minonetu.fc2web.com/AAVV/aavv01.html
ブルボンについて.6 [建築]
いやあ、すみません。まだまだ続きます。
(現在加筆中です。でっかすぎてどこがどこだか思い出せません・・・)
ヴェルサイユ宮殿内部についての判りやすい記事を発見しました。
よろしかったら訪れてください。
山科真白さんのサイト内「パリ・ブリュッセル個人旅行記」
http://www.yamashina-mashiro.com/m/pari/6/592.htm
なおペン さんの「フランス革命大解剖」のHP内
ヴェルサイユ宮殿を造った人たち(肖像画や人物コメント書かれています)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/cham/versailles/builders/builders.html
フランス革命大解剖のトップページです。凄い!!いろいろ興味深いです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/
1626 ルイ13世、狩猟用の小城を設ける
1661着工 ルイ14世の命令を受け、建築家ル・ヴォーらの大宮殿造営はじまる
1668~マンサール中心部の増改築、母屋の左右の両翼などの建設
1688だいたい完成
1687大トリアノン:マンサール(イタリア風)
1762~1768小トリアノン:ジャック・ザンジュ・ガブリエル(新古典主義)
門扉から入った正面
正面の白いついたてから向こうは外部改修工事中で、
多分大理石の内庭と狩猟小城だった部分。
翼棟(4本柱の両側の建物)は、アンジュー・ジャック・ガブリエル設計(ルイ15世後期)
左側は妻部分が簡素な気がする?右側のほうが手が込んでいる?
大臣翼棟
建築設計: マンサール
左が、アンジュー・ジャック・ガブリエル設計、新古典主義?
右が、マンサール設計、王室礼拝堂、うーん・・ネオゴシック?+バロック?
庭園設計:アンドレ・ル・ノートル
建築設計:ここはル・ヴォーかな?
建築設計:
たぶんこの真上が鏡の回廊(鏡の間と書いてあるサイトもある。どちらが正しいか不明)
そんで、その奥が王様の寝室
ブルボンについて.5 [建築]
ロココについて。
ロココの特徴は白い壁。
きんきらのモールディングはバロックにも有りますが、ロココはもっと人間的です。
しかし、こんなに派手派手で、一体何処に目をやればいいのやら。
↓これは、先の記事でも書きましたが、子供達が戯れる装飾が施されています。
白い壁は、漆喰?ひび割れているところがあったりして。
1700年代当時もこんな風だったのでしょうか?
まあ、塗り替えたのでしょうけども。
↓楕円の高窓は、「牛の目」という名前が付いているのだそうです。
形が似てるから。
これは、別の部屋。凄いところばかりだったので簡素に見えてしまいます。
他の部屋なら金色のモールが白いところがあります。
そういう元からのしつらえだったのか?めんどくさくて白くしちゃったのか?
それはともかく。展示されていた地球儀が面白い形です。
さわっちゃダメと思うので見るだけです。でも、モールも壁も素材がよく解らない。
昔の技法そのままに再現されたものなのか?金色のペンキを塗ったのか?
どうやってモールをくっつけてるのか?作業工程を考えると、気が遠くなりそう。
バロック様式の室内装飾は、マーブル(大理石)を多用し、
天井を高くし、天井画や壁画や鏡をも室内装飾に取り込み一体として見せています。
クライアントは、室内に居る人びとをも装飾の一部に取り込んで
立ち居振る舞いなども洗練を要求したのではないかなと感じます。
この時代にマーブルも鏡もフランス国内で生産されていたとは 思えません。
多分、イタリアから輸入したのでは、と思います。
そのうち職人や作業場や技術の導入がされて
ある程度は自国で作れるようになったものも有るでしょう。
そうした時代をへて、世代が代わりロココ様式が発達していったのでしょう。
先代の「太陽王」ルイ14世から「ぐうたら王」ルイ15世へ
ルイ15世は、ネットで調べると出てくるキーワードがちょっとそのう・・・
后のマリー・レクザンスカ(1703-1768)に1727~1738までの間に10人子供を産ませたとか
(お医者さんから母体の心配をされて止められた)
お妾さんがいっぱいいたとか。まあ、そんな感じです。
王妃マリー・レクザンスカも、 愛妾ポンパドゥール夫人も、美しく聡明で知的だったようです。
(一人だけでは、王の相手をしきれなかったらしいです。いろんな意味で。)
ルイ15世の時代は、王のもとで女性ものびのびしていたようです。
皆を集めてのサロンでも、女性好みに快適、明るく、繊細な室内装飾が、要求されていったのでしょうか。
それとも、たとえば、もうイタリアには良いマーブルが入手できなくて、建築士の苦肉の策だったのでしょうか。
ブルボンについて.4 [建築]
ヴェルサイユ宮殿のバロック様式で、はずしちゃならないのは、
やはり、鏡の間(マンサールが手がけました)。
鏡の間入り口
西側は窓。
夕日が鏡に映るように設計しているわけです。
落日の光線の具合で、明るい蜂蜜色から、金色が濃くなり、真っ赤になり、そして闇のとばぐちへ。
毎日、儀式のようにそれが繰り返されているわけです。
私は、2008年4月にフランスに行ったわけですが、
その時見た夕日の時間は8時~9時、そんな時間でした。
一日が長く感じられます。
マリー・アントワネットがお母さんであるマリア・テレジアに送った手紙には
朝9時~10時に起きて
着替えをし、ミサに行き
昼1時半には昼食を食べ終わる
その後読書や手芸?をし
3時に陛下や叔母さんと過ごし
4時は神父様がいらっしゃり
5時から6時までは先生が来てチェンバロや歌をならう
6時半からは、時には散歩したり、
叔母さんのところへ行き殿下とともにカードなどする9時位まで
9時から晩餐
10時45分陛下がいらっしゃり
11時に就寝
まあ、こんなスケジュールが書いてあったそうです。
鏡の壁の反対側は、王様や、お后様の寝室やら執務室?やら控え室やら。
王様になると、布団に入りながら貴族達と謁見が出来る部屋に引っ越すのだそうで。
それが、この、鏡の反対側に有ります。
歴代ルイ王は、ベッドの中で身を起こすと日が昇るのを見る事が出来る という寸法です。
ブルボンについて.3 [建築]
建築様式バロックとロココの違いを追ってみます。
バロックは、ルイ14世様式とも言われているようです。
ルイ14世のキーワードは、絶対王政、王権神受説、ローマ教皇からの独立
太陽王、朕は国家なり。
おっかないおじさんだったようです。
それと相まって、フランスヴェルサイユにおいてのバロックは、
非常に男性的、重厚、神話的要素を含んでいるようです。
うーん、自分の画像でバロックを探してみました。
このあたりかなあ?
ブルボンについて.2 [建築]
お酒のバーボンは、ブルボンの英語読みなのだそうです。
だから、なに? というつめたーいお言葉が聞こえそうです。とほほ。
ルイ15世(1710-1774)には、愛妾がいました。
ポンパドゥール夫人(1721-1764)
デュ・バリー夫人(1743-1793)
ルイ15世はあちこちで戦争を仕掛けていた人みたいです。
政治には興味が無くポンパドゥール夫人とショワズールに任せっきりでした。
「よい、任せる」
「(ぃよっしゃー!)私の時代がきた」
こんなやり取りがあったのでは。
ポンパドゥール夫人は、非常に頭も良く金遣いも荒かったようです。
装飾様式ロココも夫人の趣味で発達していったようです。
(もう、この時には太陽王はお隠れになってしまいましたしね)
ロココは、バロックに比べると軽やかなイメージです。
天井付近には、子供達が戯れている姿が飾られています。
1764年、ルイ15世のために鹿の園を作ってあげたポンパドゥール夫人は亡くなって
とってかわってデュ・バリー夫人が愛妾になり
デュ・バリー夫人の画策でショワズールは失脚し、
ブルボン朝は、ますます泥沼化していきます。
ブルボンの語源は、ケルト語で「泥」と言う意味からくることばだそうです。